認識の根幹を糾す

こんにちは、易徳大有です。

みなさまお元気でしょうか?

 

かなり久々の投稿となります。。。

 

何かと思考がせわしく混乱しておりまして、

ブログを後回しにしていましたが、

少し落ち着いたので再開します。。

 

では早速ですが本題に入ります。

今日のテーマは「認識の根幹を糾す」です。

 

これは易徳庵で開催している「メタタイプ論」

というセミナーのキャッチコピーで使っている言葉でもあります。

 

この言葉に秘められた意味について書いていこうと思います。

 

人が何かを見たり聞いたりして物事を判断し認識する時、

それは十人十色の主観から来る「解釈」でしかない。

というような話を以前の投稿でしました。

 

その解釈の差異こそ「個性」と言われるものの正体ですが、

そこに一つある問題が潜んでいるのです。

 

それは、

人はその差異に対し無意識に評価を下し、

ジャッジしてしまうという点です。

 

そこに「偏見」という歪みが生じてしまうのですね。

 

本来ある「物事」そのものには良し悪しなどありません。

しかし物事には必ず光と影という両側面が同時に存在しており、

そのどちらか一方を見て、ジャッジしてしまうのです、無意識に。

 

その無意識の思考体系そのものに潜む弊害について、

深く洞察する人は極めて少ないと思われます。

 

物事の良し悪しという評価は、その人なりの個性から来るものと、

その人の持つ信念体系に由来するものとの両面があります。

 

思想形態とか思考体系のことをイデオロギーと言いますが、

 

20世紀の後半世界は自由主義共産主義という二大イデオロギー

対立構造がありました。

「冷たい戦争」という言葉も記憶に新しいと感じる方もおられると思います。

 

これは別の言葉で言えば、唯心論と唯物論というイデオロギー対立構造です。

 

21世紀の現代でもこの構造は残っていますが、

20世紀ほどの巨大勢力ではなくなりました。

 

今やそれぞれの国や民族が独立自尊の在り方を模索し、

自国のカラーを主張しつつも共存共栄を目指すという、

新たな世界情勢かもしれませんね。

 

そもそも心と物質は対立構造ではなく、

同時に存在しているだけのことなのです。

 

さて、話を認識に戻します。

では、根幹を糾すとは具体的に何をどう糾すというのでしょうか?

 

それは、

イデオロギーという思考体系に潜む二項対立という概念そのものです。

 

二項対立とは

善vs悪、光vs影、正vs悪、男vs女、勝ち組vs負け組、陰vs陽、等々etc。

 

本来「存在」に二項対立などなく、

その存在の両側面を便宜上言語化しただけのことなのです。

 

この差異の比較という思考パラダイムに、

存在そのものの価値を担保するという偏見。

このイデオロギーパラダイムこそ糾す必要性があると思うのです。

 

糾すとは間違いを正すという、

良い悪いという概念ではなく、

もつれた糸を元に戻すという意味なのです。

 

話が長くなりましたのでまとめます。

 

新しい時代に生きる我々の進化した在り方とは?

認識の根幹を糾す新たな第3のイデオロギーとは?

メタタイプ論というメタ視点から見る個性の型と認識の本質とは?

 

近々これらについて独自の見解を発表し、

あなたにパラダイムシフトを起す場を提供したいと思います。

 

ぜひ興味のある方は参加してみたくださいね。

 

では今回はこの辺で失礼します。